INICIAR SESIÓN翌日の朝、私は少し寝坊した。
目を覚ますと時計は七時十分を指している。
「……やば」
慌てて起き上がる。
いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。
私は急いでキッチンへ向かう。
でもそこには思っていた光景がなかった。
悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。
「あ」
思わず声が漏れる。
悠斗はこちらを振り返り、少し驚いた顔をしたあと笑った。
「珍しいじゃん、寝坊」
「ご、ごめん……!」
「なんで謝んの」
そう言いながら、悠斗はマグカップを差し出してくる。
「はい」
「え?」
「真琴の分」
私は戸惑いながら受け取った。
温かい。
「ありがとう……」
「別に。インスタントだけど」
悠斗は欠伸をしながらソファへ座る。
私はマグカップを両手で包み込んだまま立ち尽くしていた。
なんだろう。
それだけのことなのに、少し泣きそうになる。
「真琴?」
「え?」
「ほんと疲れてんじゃない?」
悠斗は少し心配そうに眉を寄せていた。
私は慌てて笑う。
「大丈夫。最近ちょっと忙しいだけ」
「なら今日外で食う?」
「え?」
「夜。飯作るの面倒だろ」
私は目を瞬かせる。
悠斗からそんな提案をされるのは久しぶりだった。
「……いいの?」
「いいのって何」
悠斗は苦笑する。
「真琴、最近なんか変」
「変って」
「気ぃ遣いすぎ」
その言葉に胸が少しだけ痛んだ。
私は視線を落とす。
気を遣ってるのは本当だった。
でもそれは今に始まったことじゃない。
悠斗が疲れてないか。
面倒に思ってないか。
重いと思われてないか。
ずっと考えてる。
でもそれを言ったら、もっと面倒くさい気がして。
「……じゃあ、行きたい」
小さく言う。
悠斗は「ん」と頷いた。
「仕事終わったら連絡する」
「わかった」
そのやり取りだけで少しだけ嬉しくなる。
単純だな、と思う。
昨日まであんなに苦しかったのに。
でもこういう小さな優しさで、私は簡単に安心してしまう。
会社へ向かう電車の中でも、少しだけ気分が軽かった。
今日は久しぶりに外食だ。
何食べよう。
悠斗、パスタ好きだったな。
あ、でも最近胃疲れてるって言ってたし――
そこまで考えて、私はふと止まる。
まただ。
私は二人のご飯を考えてるつもりで、結局は悠斗基準になっている。
自分が何を食べたいのか、分からない。
窓に映る自分の顔は思ったより疲れて見えた。
仕事中もなんとなく落ち着かなかった。
スマホが気になる。
悠斗から連絡来るかな。
何時になるかな。
そんなことばかり考えてしまう。
午後六時過ぎ。
私は仕事を終え、スマホを確認する。
通知はない。
まだ仕事中かな。
私は会社近くのカフェで時間を潰すことにした。
コーヒーを飲みながらスマホを見る。
午後六時半。
七時。
七時十五分。
私は何度も画面を点けては消す。
連絡くらい自分からすればいいのに。
でも忙しかったら悪いし。
急かしてるみたいで嫌だし。
そう考えてしまう。
午後七時半を過ぎた頃、ようやく通知が来た。
『ごめん、今日やっぱ無理。飲み会入った』
私はその文章を見つめたまま動けなかった。
少しして、指先が冷えていくのを感じる。
……そっか。
仕方ない。
会社の付き合いなら。
私はそう思おうとする。
でも胸の奥が、じわじわ苦しかった。
今日、久しぶりに一緒にご飯行けると思ってた。
少し楽しみにしてた。
なのに。
私はスマホを握りしめる。
『了解。楽しんできてね』
送信する。
既読はすぐについた。
返信はない。
私はゆっくりスマホを伏せる。
窓の外はもう暗かった。
店の中では、隣の席のカップルが楽しそうに笑っている。
私は冷めかけたコーヒーを一口飲む。
苦かった。
その時ふと、今朝のことを思い出す。
悠斗が淹れてくれたコーヒー。
少し嬉しかった。
だから期待してしまった。
また昔みたいに戻れるかもしれないって。
でも私は、ずっとこうやって。
小さな優しさ一つで期待して、勝手に傷ついてるだけなのかもしれない。
私は静かに目を閉じる。
本当は。
寂しかった。
でもその一言が、どうしても言えなかった。
書店を出ると、夕方の空は少しだけ藍色に近づいていた。 昼間の明るさはまだ残っているのに、店先の灯りがもう目に入る。 掲示板には、さっきまで見ていた展示のチラシが貼られている。『小さな器と暮らしの写真展』 その文字をもう一度見て、私はバッグを少し持ち直した。 中に器は入っていない。 買った器は、もう私の部屋にある。 食器棚の白い器の隣で、次に使われるのを待っている。 でも今日は、別のものを持ち帰っている気がした。 作家さんの言葉。 朝倉さんの言葉。 普通の日の話を、また聞かせてください。 その一言が、胸の中で何度も静かに響いていた。 普通の日。 特別ではない日。 ヨーグルトを食べる朝。 少し薄い味噌汁を作る夜。 花瓶の水を替える時間。 洗濯物を畳む途中で、つい本を開いてしまう午後。 そういうものを、話していいと言われた。 むしろ、聞きたいと言われた。 それが、思っていた以上に嬉しかった。◇◇◇◇ 帰り道、私はスーパーに寄った。 今夜は何を作ろう。 展示に行く前から決めていたわけではない。 でも朝倉さんに、普通の日の話をまた聞かせてくださいと言われたら、なんとなく普通の夕飯をちゃんと作りたくなった。 特別な料理ではなくていい。 誰かに見せるためでもない。 私が食べるための夕飯。 野菜売り場で、かぼちゃと小松菜を見る。 トマトもある。 卵もまだ家にあったはずだ。 私は少し迷って、かぼちゃを手に取った。 それから、豆腐と小松菜もかごに入れる。 かぼちゃの煮物。 小松菜と豆腐の味噌汁。 あとは、卵焼き。 いつものようなメニュー。 でも、今日は新しい器に何を
朝倉さんが他の来場者の方へ向かったあと、私はもう一度展示室をゆっくり見て回った。 さっきまで見ていたはずの写真も、少しだけ違って見える。 作家さんに感想を伝えたあとだからかもしれない。 朝倉さんと、普通の日の話をしたあとだからかもしれない。 器も、写真も、ただそこに飾られているものではなくなっていた。 誰かが作ったもの。 誰かが撮ったもの。 誰かの生活に入って、少しずつ意味を変えていくもの。 そう思うと、展示室の白い壁まで少し温かく感じた。 私は『余白の席』の前で足を止めた。 丸いテーブル。 湯気の立つカップ。 向かいの椅子に置かれた布。 その椅子は、やっぱり寂しいだけには見えなかった。 空いている。 でも、拒んでいるわけではない。 誰かが座るかもしれない。 今日は何も置かれないかもしれない。 それでも、その余白はちゃんとそこにある。 私の部屋の二脚目の椅子も、きっと同じだ。 千尋が座った。 森下さんが座った。 紙袋や本を置いた。 何も置かない日もある。 そして今、私はそこにまだ知らない未来まで無理に座らせなくていいと思っている。◇◇◇◇ 展示室の端にある感想カードの机へ行き、私は少し迷ってからペンを取った。 今日、もう感想は書いた。 作家さんにも話した。 朝倉さんにも話した。 それでも、最後にもう一言だけ残したかった。 白いカードに、短く書く。『普通の日の中で使いたい器と、普通の日の中で思い出す写真に出会えました』 書き終えて、少しだけ手を止める。 普通の日。 その言葉が、今日何度も胸の中で響いていた。 特別な日ではない。 誰かに褒めてもらうための日でもない。
作家さんと別れたあと、私は展示室の窓際に近い場所へ移動した。 窓は小さく、外の景色はあまり見えない。 けれど、そこから入る光が壁の写真の端を少しだけ明るくしていた。「話してよかったです」 私が言うと、朝倉さんは静かに頷いた。「はい。とてもいい時間でした」「緊張しました」「そう見えました」「見えてましたか」「少し。でも、ちゃんと藤崎さんの言葉でした」 その言い方に、胸が小さく温かくなる。 ちゃんと私の言葉。 以前の私は、それを持つのが苦手だった。 相手が喜びそうな言葉。 場を乱さない言葉。 無難で、正しくて、誰かに迷惑をかけない言葉。 そういうものを先に探していた。 でも今日は、うまくなくても自分の言葉で話せた気がする。「普通のヨーグルトの話ですけど」「普通のヨーグルトの話がよかったんだと思います」 朝倉さんは少し笑った。「特別な料理より、器が本当に使われている感じがしました」「そうなんですね」「はい。日常に入ったんだなって」 日常に入る。 その言葉を聞いて、私は自分の部屋を思い浮かべた。 朝のテーブル。 青みのある器。 ブルーベリー。 グレーのマグカップ。 窓辺の花瓶。 そういう景色の中に、あの器はもうある。 買ったばかりなのに、少しずつ日常になっている。◇◇◇◇「朝倉さんは」 私は少し迷ってから聞いた。「はい」「写真を撮ったあと、その写真が誰かの日常に入ることってありますか」 自分で聞いて、少し抽象的だったかもしれないと思った。 でも朝倉さんは、急かさず考えてくれた。「あります」「あるんですね」「
朝倉さんに案内されて、私は器の作家さんの方へ歩いた。 展示室の端で、作家さんは年配の女性と話していた。 小さな白い皿を前に、料理の盛りつけについて説明している。 私は少し離れた場所で立ち止まった。 今ならまだ戻れる。 そう思ってしまう自分がいる。 感想を伝えるだけ。 それなのに、胸が少し緊張していた。 うまく言えるだろうか。 変なことを言わないだろうか。 作った人に直接話すなんて、少し大げさではないだろうか。 そんな考えが頭に浮かぶ。 でも同時に、伝えてみたい気持ちもあった。 あの器を使ったこと。 普通のヨーグルトを入れたこと。 少しだけ朝が嬉しくなったこと。 それは、私の生活の中で本当に起きたことだった。 朝倉さんは私を急かさず、隣で静かに待っていた。「無理しなくても大丈夫です」 小さな声で言われて、私は少しだけ笑った。「大丈夫です。少し緊張してるだけで」「はい」「でも、話したいです」 そう言うと、朝倉さんは穏やかに頷いた。「では、少しだけ」 作家さんの話が一区切りついたところで、朝倉さんが声をかけた。「すみません」「あ、朝倉さん」 作家さんがこちらを向き、それから私に気づいた。「この前、器を選んでくださった方ですよね」「はい」 覚えていてもらえたことに、少し驚いた。「ありがとうございました。使ってみて、どうでした?」 いきなり聞かれて、私は少し慌てた。 でも、作家さんの声はやわらかかった。 正解を求めている感じではない。 私はバッグの持ち手を握り、ゆっくり言葉を探した。「普通のヨーグルトを入れました」「ヨーグルト」「はい。プレーンの。あと、ブ
書店の二階へ上がると、展示室には前より少しだけ人が多かった。 仕事帰りらしい人。 年配の夫婦。 小さなノートを持って写真を見ている女性。 白い壁に並ぶ写真と、そのそばに置かれた器。 一度見た景色なのに、今日は少し近く感じた。 私は最初の展示からゆっくり見ていった。 朝のテーブル。 白い皿のトースト。 台所の深い鉢。 夕方の丸いテーブル。 余白の席。 前に来た時は、器を選ぶ前だった。 今日は違う。 私はもう、あの小さな深皿を自分の部屋で使っている。 ヨーグルトを入れた。 ブルーベリーをのせた。 トマトのマリネも入れた。 食器棚の白い器の隣に置いた。 そのせいか、展示の中の器もただ見るものではなく、これから使われるものに見えた。 棚に並んでいる時の静かさ。 食卓に置かれる時の少しの緊張。 食べ終えたあと、洗われて戻る場所。 器にも、そんな時間があるのかもしれない。◇◇◇◇ 私は『余白の席』の前で足を止めた。 前回よりも、写真の中の椅子が柔らかく見える。 向かいの席には畳まれた布。 カップから立つ湯気。 人はいない。 でも、誰かの気配はある。 私の二脚目の椅子も、最近はよく何かを置いている。 本。 紙袋。 森下さんが持ってきてくれた焼き菓子。 千尋が座った記憶。 森下さんが座った記憶。 そして時々、何も置かない余白。 その余白を、私は前より怖がらなくなっている。 空いていることは、足りないことではない。 まだ決めなくていい場所があるということ。 その考え方は、私の中で少しずつ根を張っていた。「藤崎さん」
展示に寄らなかった翌日、私は少しだけ不思議な気持ちで目を覚ました。 昨日、私は行きたい場所へ行かなかった。 それなのに、後悔はあまりなかった。 もちろん、展示は見たい。 朝倉さんに会えたら嬉しい。 器を使った感想も、いつか話したい。 でも昨日の私は疲れていた。 その疲れを無視してまで行かなかった。 そのことが、思っていたよりも自分の中で大きかった。 前なら、楽しみにしていた予定を逃した自分を責めていたかもしれない。 せっかく行ける日だったのに。 今日行かなかったら次はいつになるか分からないのに。 そうやって、自分で自分を急かしていた。 でも、展示はまだ続いている。 今日行けなくても、また別の日がある。 楽しみは、一度で全部使い切らなくてもいい。 私はカーテンを開けた。 朝の光が水色の花瓶に当たる。 クラゲのキーホルダーが、窓辺で小さく揺れていた。「おはよう」 いつものように言う。 返事はない。 でも、この部屋の静けさは、今日もちゃんと私を迎えてくれていた。◇◇◇◇ 朝食には、新しい器を使った。 ヨーグルトにブルーベリーを少し。 トースト。 紅茶。 昨日よりも器が手に馴染む気がした。 たった二回、三回使っただけなのに。 食器棚から取り出す時、もう少し迷わなくなっている。 白い器の隣に置いた場所が、少しだけ定位置になってきたからかもしれない。 私はスプーンを持ち、ヨーグルトを食べた。 冷たい。 少し酸っぱい。 ブルーベリーの紫が、器の青みとよく合っている。 普通の朝。 普通の味。 でも、少し嬉しい。 そういうものが増えていくことが、今は楽しかった。
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
写真を閉じたあとも胸のざわつきは消えなかった。 私はソファに座ったまま、ぼんやりスマホを握りしめる。 居酒屋の明るい照明。 楽しそうな笑い声が聞こえてきそうな写真。 その端に映っていた悠斗。 私の前で見せる顔とは少し違って見えた。 なんでだろう。 笑っていただけなのに。
その日から私は少しだけ悠斗のスマホが気になるようになった。 別に見るつもりはない。 そんなことしたくないし、したら終わりだと思う。 でも。 通知が鳴るたび、無意識に視線が向いてしまう。 悠斗が笑うたび、胸の奥がざわつく。 自分でも嫌だった。 こんなの重い彼女みたいじゃない。