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第8話 言えなかったこと

Author: 八月 猫
last update publish date: 2026-06-07 11:00:46

 翌日の朝、私は少し寝坊した。

 目を覚ますと時計は七時十分を指している。

「……やば」

 慌てて起き上がる。

 いつもならもう朝食を作り始めている時間だった。

 私は急いでキッチンへ向かう。

 でもそこには思っていた光景がなかった。

 悠斗が一人でコーヒーを淹れていた。

「あ」

 思わず声が漏れる。

 悠斗はこちらを振り返り、少し驚いた顔をしたあと笑った。

「珍しいじゃん、寝坊」

「ご、ごめん……!」

「なんで謝んの」

 そう言いながら、悠斗はマグカップを差し出してくる。

「はい」

「え?」

「真琴の分」

 私は戸惑いながら受け取った。

 温かい。

「ありがとう……」

「別に。インスタントだけど」

 悠斗は欠伸をしながらソファへ座る。

 私はマグカップを両手で包み込んだまま立ち尽くしていた。

 なんだろう。

 それだけのことなのに、少し泣きそうになる。

「真琴?」

「え?」

「ほんと疲れてんじゃない?」

 悠斗は少し心配そうに眉を寄せていた。

 私は慌てて笑う。

「大丈夫。最近ちょっと忙しいだけ」

「なら今日外で食う?」

「え?」

「夜。飯作るの面倒だろ」

 私は目を瞬かせる。

 悠斗からそんな提案をされるのは久しぶりだった。

「……いいの?」

「いいのって何」

 悠斗は苦笑する。

「真琴、最近なんか変」

「変って」

「気ぃ遣いすぎ」

 その言葉に胸が少しだけ痛んだ。

 私は視線を落とす。

 気を遣ってるのは本当だった。

 でもそれは今に始まったことじゃない。

 悠斗が疲れてないか。

 面倒に思ってないか。

 重いと思われてないか。

 ずっと考えてる。

 でもそれを言ったら、もっと面倒くさい気がして。

「……じゃあ、行きたい」

 小さく言う。

 悠斗は「ん」と頷いた。

「仕事終わったら連絡する」

「わかった」

 そのやり取りだけで少しだけ嬉しくなる。

 単純だな、と思う。

 昨日まであんなに苦しかったのに。

 でもこういう小さな優しさで、私は簡単に安心してしまう。

 会社へ向かう電車の中でも、少しだけ気分が軽かった。

 今日は久しぶりに外食だ。

 何食べよう。

 悠斗、パスタ好きだったな。

 あ、でも最近胃疲れてるって言ってたし――

 そこまで考えて、私はふと止まる。

 まただ。

 私は二人のご飯を考えてるつもりで、結局は悠斗基準になっている。

 自分が何を食べたいのか、分からない。

 窓に映る自分の顔は思ったより疲れて見えた。

 仕事中もなんとなく落ち着かなかった。

 スマホが気になる。

 悠斗から連絡来るかな。

 何時になるかな。

 そんなことばかり考えてしまう。

 午後六時過ぎ。

 私は仕事を終え、スマホを確認する。

 通知はない。

 まだ仕事中かな。

 私は会社近くのカフェで時間を潰すことにした。

 コーヒーを飲みながらスマホを見る。

 午後六時半。

 七時。

 七時十五分。

 私は何度も画面を点けては消す。

 連絡くらい自分からすればいいのに。

 でも忙しかったら悪いし。

 急かしてるみたいで嫌だし。

 そう考えてしまう。

 午後七時半を過ぎた頃、ようやく通知が来た。

『ごめん、今日やっぱ無理。飲み会入った』

 私はその文章を見つめたまま動けなかった。

 少しして、指先が冷えていくのを感じる。

 ……そっか。

 仕方ない。

 会社の付き合いなら。

 私はそう思おうとする。

 でも胸の奥が、じわじわ苦しかった。

 今日、久しぶりに一緒にご飯行けると思ってた。

 少し楽しみにしてた。

 なのに。

 私はスマホを握りしめる。

『了解。楽しんできてね』

 送信する。

 既読はすぐについた。

 返信はない。

 私はゆっくりスマホを伏せる。

 窓の外はもう暗かった。

 店の中では、隣の席のカップルが楽しそうに笑っている。

 私は冷めかけたコーヒーを一口飲む。

 苦かった。

 その時ふと、今朝のことを思い出す。

 悠斗が淹れてくれたコーヒー。

 少し嬉しかった。

 だから期待してしまった。

 また昔みたいに戻れるかもしれないって。

 でも私は、ずっとこうやって。

 小さな優しさ一つで期待して、勝手に傷ついてるだけなのかもしれない。

 私は静かに目を閉じる。

 本当は。

 寂しかった。

 でもその一言が、どうしても言えなかった。

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  • 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜   第3話 母親みたい

     翌朝、目が覚めるとソファの上に毛布が落ちていた。 悠斗はベッドに戻ったらしい。 私はぼんやり天井を見上げたまま、小さく息を吐く。 身体が重い。 昨日はちゃんと寝たはずなのに、疲れが抜けていなかった。 時計を見る。 午前六時半。 あと三十分で悠斗を起こさないといけない。

  • 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜   第2話 冷めた唐揚げ

     食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。

  • 『尽くしすぎたのでやめました。今さら後悔しても遅いです』〜帰らない人を待つのは、もうやめます〜   第1章 第1話 今日はご飯いらない

    玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。

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